3月9日 ②

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2010年10月頃の旧棟(更生部)の写真です。

2011年3月11日から明後日

あの日から10年を迎えます。

 

あまりにも大きな災害であり10年を経ても

未だに行方不明の方が大勢いることや、

帰りたくても元の場所に戻れない方が

いる中、特に被害も受けなかった自分が

語るのも空々しくもありますが

亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると

共に行方不明の方の捜索に進展があること

避難されている方が希望する土地に戻れること

それぞれの街の復興が進むことを祈願致します。

 

10年前のあの日、更生部はどうだったか

自分はどうしていたか当時も更生部に所属

していたので記憶も曖昧になっていますが

思い出してみようと思います。

 

更生部は今の「新棟2F」ではなく写真の様に

「3階建ての旧棟」でした。

1Fを通所のご利用者様の控室等に使用。

2F、3Fが入所利用者様の居室で、

介護員と看護師詰所は3Fでした。

 

14時46分頃、竹浦でも大きく揺れて、それが

長く続きました。私は1Fにおりましたが、樽前山

ついに噴火したと一瞬、思いました。

 

職員は手分けして利用者様の居室まわりをして怪我等

していないか確認。幸いにも利用者様の怪我、設備的に

問題は起こらず停電も無く、エレベーターも作動して

いました。私は利用者様が見ていたテレビの速報で

震源地の確認、広範囲に津波警報が出たことを知ったと

思います。

 

最初は「津波警報」で、少しあいて「大津波警報」となり

東北地方に第1波の襲来の映像を見た時には絶句しました。

 

更生部居室は2階3階でしたので利用者様には自室にて

待機と1階には下りない様にお願いしました。他の場所に

避難する選択肢はとらず、この当時唯一、1Fに生活空間の

ある特養部利用者様の避難が始まったと思います。

 

判断に迷ったのは帰りの近づいた通所利用者様はどうする?

ということでした。考えた結果、いつもより遅く帰宅車両を

出発させたと記憶しております。海に近い当事業所より、

殆どの方が海から離れた場所にご自宅があるからという

こともあったと思います。ただ利用者様の中には自宅が海に

近い方もおり、ご家族が避難され連絡がつかず施設に戻って

泊まっていただいた方もでました。

 

結果として

白老町では津波の被害は出なかった後で聞きましたが、2Fの

居室からでも潮位の変化を若干、確認したと聞きましたので

大津波警報が発令中の送りは危険だったかもしれません。

ただ、この時は翌日まで大津波警報はと続いたので、もし

同様の有事が起きたらどうするか難しいとこりではあります。

 

特養部の利用者様の2F会議室への移動の手伝いをしている時は

自分事ですが自宅にいる両親が心配でしたが電話は繋がりません。

地震は白老でも大きかったですが津波の被害は出ていないことが

ほぼ間違いないので、それは救いではありました。

 

これも後で思いましたが東北の多くの方々は自分の職場から動けず

連絡もつかず家族や近しい人たちのことが心配でたまらなかったで

あろうと。

 

「ここにいて大丈夫なんだろうか?」と言われた利用者様もいました。

大丈夫です。2Fの高さがあるし建物は古いけど鉄筋ですから、と、

根拠もなく言ってしまいました。

 

私は然程、残りませんでしたが夜勤業務以外でも利用者様の対応のため

残った職員もおりました。

 

翌日は出勤可能な職員で特養部の利用者様を元の1Fへ戻るお手伝いを

しました。

 

記憶が間違っている点もあると思います。

何より私の主観の話しなので何の意味もないかもしれませんが、

3月11日を想い出し、忘れないことは、しても良いと思い

ました。長くなり失礼しました。